ブランドストリートの華やかさが増す一方で、そこからひっそりと消えていくブランドもある。イギリスの、、バッグや小物のブランド、マル、ペリーは、一九九六年に丸の内に直営店を出したが、赤字続きで二〇〇二年三月に店を閉めた。丸の内地区が軌道に乗りはじめた今、ブランド街丸の内の初期を彩ったマルペリーの姿はない。直営店から手を引いたマルペリーは現在は卸売に特化したビジネスを展開している。だが、多くのブランドがひしめきあう日本では、いまだに存在感が希薄のままだ。イギリス風のカントリーテイストを持ち味とするマルベリーはゴージャスさに欠け、ファッション性も低い。固定ファンはついてはいたが、丁寧なモノ作りの姿勢だけではもはや競合他社のひしめく日本市場では太刀打ちできないのかもしれない。マルベリーには、華やかなファッション性のほかに、もう一つ欠けているものがあった。積極的にイメージ戦略を仕掛けたり、人気デザイナーを起用してファ″ショソ性を高めることができる「企業としての体力」だ。マルペリーは良いブランドだったかもしれないが、強いブランドではなかった。強力な後ろ盾や豊富な資金力のないブランドは生きにくい。ヴィトンももともとは一人の職人が創業した小さなブランドだ。顧客は上流階級の富裕層でも、ヴィトン自体の売上規模は小さかったし、八一年にルイーヴィトンの日本法人が設立された当時、日本での売上はたったコー億円たった。現在のI〇〇分の一以下の数字だ。それが今では、毎日日本だけでヴィトン製品が四億円以上も売れていく。もはやブランドというより、大量生産の象徴である。LVMHが虎視沈々と狙うダッチも、二一年にグッチオーダッチが創業した当時は、フィレンツェの小さな馬具ブランドに過ぎなかった。ダッチ製品を日本ではじめて販売したのはサソモトヤマだったが、社長(当時)の茂登山長市郎がダッチの製品を扱いたくて、何度もフィレンツェにダッチ詣でをしていた時、彼をもてなしたのは創業者の五男、ハスコだったという。しかし、時代は移り変わり、ダッチのビジネスは変質していく。ダッチファミリーは、ファミリー間の骨肉の争いを経て、八〇年代の後半にアラブ資本の投資会社、イこペストコープ社に株を売却し、九三年に完全にダッチブランドの経営から手を引いた。訴訟、殺人などスキャンダラスな話題が先行し、地に墜ちたブランドイメージを復活させたのは、潤沢な資金力に支えられたアラブ資本のダッチグループNV社だ。こういったケースを聞くにつれ、ブランドはつくづく世界をまたにかけた大企業によって展開されているのだと実感する。日本のブランドエリアも、七〇年代は並木通りだけだった。売場規模も小さかったし、商いとしては細々としたものに過ぎなかった。それから三〇年を経て、ブランドビジネスの規模は拡張する一方だ。銀座中央通りの路面店の売場面積は100坪以上もあり、外観も内装も豪華そのもの。家賃も並木通りの比ではない。表参道・青山地区も同様だ。後ろ盾のないブランドが、ブランドエリアに店を持つことは難しい。逆にいえば、莫大な資金力のあるブランドだけが、ブランドエリアの一員に加わることができるのである。ブランドビジネスの盛況は、日本人の強烈なブランド志向を抜きに語ることはできない。世界的に「高級」「高品質」と太鼓判が押されたブランドに熱を上げ、殺到する日本人気質があるからこそ、日本はこれほどまでのブランド大国に成り上がった。世界一といわれるブランドマーケットを支える日本人のブランド志向はどこから生まれているのか。何を求めているのか。ここでは、ブランドビジネスの盛況から浮き彫りになる日本人のブランド志向を探ってみたい。